「一般社団法人 全ビルマ会」発足の経緯、沿革戦後、ビルマ政府は、一般外国人の入国を完全に拒否し、僅に政府関係者のみが訪緬していた。
昭和三十一年に、厚生省は、御遺族、僧侶団体の協力を得て、御遺骨収集を行い、 千三百二十一体を奉還したが、これに協力した民間人の壮行会や慰霊際を行う戦友会は、 全国で五十を数えた。
東京でも、「ビルマ親善協会」がビルマ方面軍参謀長片倉衷氏を理事長として、 昭和三十一年一月三日発足した。
しかし、民間団体で「日本ビルマ協会」が存在したので、昭和三十六年七月十九日に、 「ビルマ僚友会」と改稱した。
昭和三十九年五月二十一日に、下級将校、下士官、兵を中心に、 「ビルマ戦没者慰霊顕彰会」が結成されたが、「ビルマ僚友会」と目的を同じくする所から、 当時の高瀬ビルマ駐在大使の要請により、三十九年七月二日、大同団結して、 「ビルマ英霊顕彰会」となった。
昭和四十五年に、一般外国人の入国を許可されたので、 第一回の戦跡慰霊巡拝団が派遣され、四十七年、四十八年にも續行された。
関西からも、同様に「日本印緬戦跡巡拝団」が、ビルマ、インド、タイに向けて派遣された。
厚生省は、これまでに、二十年以上に沿り、二十万体の御遺骨を収集したとして、 収集打ち切りを企画し始めたのに対し、日本遺族会と宗教団体が 「戦没者遺骨収集促進団体協議会」を作って厚生省に陳情を開始し、 ビルマ英霊顕彰会も加入して陳情を行った。
昭和四十七年、横井正一氏がグアム島から生還して、遺骨収集の声が全国的に盛上り、 厚生省に対する、ビルマの戦友会からの問い合わせが殺到した為、 厚生省よりビルマ英霊顕彰会に対して、ビルマ戦友会の窓口を一本化する様との要望があり、 関西、中国、四国、九州と陸軍航空部隊の戦友会に呼びかけて、昭和四十八年七月 二十一日に、「全ビルマ戦友団体連絡協議会」を結成し、厚生省に遺骨収集促進方を申入れ、 厚生省は四十九年になり、昭和五十年から収集を行う旨の回答を得て、 之に協力する為の募金を開始した。
遺骨収集は、昭和五十年、五十一年、五十二年にビルマ、インドで行われ、五十三年、 五十四年にはタイ国でも行われた。
更に五十八年までビルマで、六百体が収骨されたので、 最終的には、三万五千六百十九体が内地へ奉還された。
しかし、中国の雲南地区の収骨は未だ実施されていない。
ビルマに慰霊碑を建立する事については、ラングーン(現ヤンゴン市)に「ビルマ平和記念碑」を 建立することが決まり、昭和五十六年三月、落成、追悼慰霊祭が行われた。
その後、平成十年十月、ヤンゴン空港北方の北オクラツパに、 ビルマ政府の都合で移動し、「ビルマ戦連協」は募金を行い、十六万ドルを日本人会に寄贈して 日本人墓地の移転、整備にあてた。
「ビルマ英霊顕彰会」では、昭和六十一年から戦跡慰霊巡拝団の派遣を再開し、毎年派遣することを決議し、現在まで続けられている。
各戦友会単位での慰霊巡拝も続けられているが、各地で慰霊碑や記念碑などの建立が行われ、慰霊パゴダ十四基、慰霊碑六十五基、礼拝堂八堂、時計台五基、水道施設十二等々が作られ寄贈された。  
又、インドに対しても、収骨を行ったほか、平成六年三月二十一日、マニプール州で日印合同慰霊碑が建立され、印度側からは、マニプール、ナガランド州知事のナヤール中将以下四十三名が出席し、日本から参列した百八十一名と共に盛大な慰霊祭を行った。  
日英親善、和解の為には、英国駐在の丸紅支店の平久保正夫氏の盡力があった。
平成二十八年六月、任意団体として活動を続けてまいりました、「全ビルマ会」を法的社会的責任のある「一般社団法人 全ビルマ会」に改組致しました。
慰霊祭・慰霊巡拝はもとより、あらゆる分野でより一層社会貢献出来るよう努めてまいります。

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